【戦艦大和】軍港の街・呉を訪れる 冬の18きっぷ西日本遠征V 三原→呉
年末の18きっぷ遠征2日目の記録です。
三原駅から呉(くれ)線に乗車し、海沿いを通って呉を経由しながら広島へ向かいます。
新型車両のLEDには行先や種別のほかに「頑張ろう!広島」と表示されていました。
前回の記事はこちら↓
呉線
三原駅は海から非常に近い所にあるのですが、
呉線は三原を出るとさらに海に近づきます。
東北の沿岸部を旅したことは何度もありますが、車窓から見えるのは太平洋。
島なんてほとんど見れなかったので、瀬戸内海に浮かぶたくさんの島々を見ながら車窓が移りゆくのは興奮しました。
改めて、日本列島って実はかなり広いんだなあ、しかもそれは実際に見てみないとわからないんだなあと痛感しています。
呉に到着。かなり大きな駅で客の入れ替えが発生、多くの乗降がありました。
駅舎もデパートが隣接してすごく立派なのですがうっかり撮り忘れました…
そして三原と同様、降りたら潮の香りが漂ってきて、海が近いということをはっきりと感じました。
駅からの連絡通路を通って大和ミュージアムへ。ゆめタウンの中を通るルートですがこれが正規ルートのようです。
船や錨(いかり)のイラストが床に描かれ、かわいらしい雰囲気です。
大和ミュージアム
もう少しで海、というところで大和ミュージアムと、潜水艦あきしおが見えてきました。
本当はいろいろ行きたかったのですが、時間の都合上じっくり見学したのは大和ミュージアムのみです。
戦艦・「大和」(やまと)をテーマにした博物館。大和くらいは名前を聞いたことあるという方がほとんどではないでしょうか。
入館するといきなり大和の模型がお出迎えしてきました。
なんだ模型かと侮るなかれ。
本物の大和は長さmですが、この模型は1/10のサイズの26.3m。
設計図面や当時の写真、海底調査のビデオなどを何十時間も見て、製造。
しかも模型とはいえ徹底的に作るということで、
船体を作るにあたって現在も軍艦を作っている三井玉野造船所に発注し、船体の素材を実際の護衛艦と同じものにし、
甲板の木材も、当時は国産の台湾ヒノキを使用していましたが(1895年の下関条約によって、当時は台湾も日本の領土になっていました)、
木目をヒノキの10分の1に詰めて同じ縮尺にするべく、暴れやすいタモという北海道の材木を使用。
大きさだけにこだわるなら船体を木造にしたり、同じヒノキを使うこともできたはずですが、あえてそうせずに真剣に本気で作ることによって来場した人に感動してもらうことが目的のようで、これが人気の秘密です。
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さて、ここからは博物館で見た内容を書き連ねていきます。呉の歴史が主です。
呉市は横須賀市・舞鶴市・佐世保市とともに、明治時代に日本の海軍の機関である鎮守府がおかれ、軍港四市といわれた。呉の鎮守府開庁とともに、艦艇建造を国産化するために海軍工廠や関連工場が次々と建設され、全国各地から人が集まるように。
ワシントン、ロンドン会議での軍縮条約をきっかけに、いったんは量より質の高い造船をするようになったが、
軍縮条約が失効すると次は世界最大級の巨大戦艦・大和の設計を極秘で開始するように。
翌年1941年(昭和16年)に太平洋戦争が開始。
その年に世界最強といわれる戦艦・大和が建設され、日本一の海軍工廠を有する町として発展し、その年の人口は40万人を誇ったという。
しかし、当時は飛行機の時代。戦艦は支援任務が主であった。
しかし、1942年のミッドウェー海戦で大敗すると、日本の戦況は徐々に傾いていく。
呉も同様で、呉では失った空母の建設や戦艦の造修に追われるようになり、航空機中心の時代になるにつれて航空戦艦への改造も行われるようになっていった。
そして45年6月の沖縄戦のころに大和は沈没してしまう。
呉への空襲も行われるようになり、1945年の終戦時にはあたりは焼け野原になってしまった。
当時の人々は軍艦の解体や、占領軍の求めた職を食いつないで生活を支えていたというが、 各国の占領軍の撤退やドッジ不況というデフレのためにさらに多くの失業者が生まれた。
しかし朝鮮戦争の際、呉は国連軍の兵廠基地となりいわゆる軍需景気で復興していった。戦争終結後は、高い技術者がいることに狙いをつけて造船・製鉄などの企業誘致していった。
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国連軍撤退後の用地は自衛隊用地や企業用地に生まれ変わって、新たに呉を支えています。
現在の呉は、交通がやや不便で、横須賀や佐世保と異なり米軍は入らなかったためか、地域に住民がずっと定着する傾向にあり、街の雰囲気が戦前の明治時代の海軍の街という雰囲気があまり崩れずに今も残っています。
その一方で最先端技術を持ち、ジャンボジェットのエンジンなど重要な部品も呉の工場がほとんど作っています。
また、300mを超える超大型の貨物船が呉に停泊していて、今では多くの荷物を一度に輸送する船を作るように変わっていました。
伝統的な街の空気と世界的な最先端技術が共生する呉。いったん解体した海軍の技術はいまも地元で生きているということがうかがえました。
このように、大和ミュージアムは正しい歴史を知ることで、平和の大切さや現在の呉の科学技術のすばらしさを伝えている博物館です。決して戦争賛美なんかしていません。
ちなみに、歴史や特色を通して我が国の文化・伝統を語るとして、呉含む旧軍港四市は日本遺産に認定されました。
これまた戦争に使われたものの展示室。
零戦と特殊潜航艇。
皇紀2600年(昭和15年)に作られたからゼロ戦と呼ばれたそうです。皇紀なんて本を読んで初めて知りました…
第二次世界大戦からは飛行機での空中戦がメインとなっていきました。その中で日本が作った飛行機。
工業が発達してい高い戦闘能力、航続距離の長さなかった日本が作ったのですが、飛行機は世界一ともいわれたそうです。
特殊潜航艇は、航首に600㎏の炸薬を装備し、両脇に抱えた魚雷発射後に目標の鑑定に突入する「水中特攻兵器」として使用されました。
ほかにも、人間魚雷の「回天」や、飛行機に使われたエンジンなどもありました。
特攻についてもいろいろ思うことはありますが、とりあえず今回は保留しておきます。
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おまけ
おまたせ軍港名物、海軍カレー。
ずっと海の上にいると曜日感覚がずれてしまうため、毎週金曜日はカレーにして曜日を忘れないようにしていたそうです。
てつのくじら館に食堂があったのでそこで食べました。
観光地価格でしたが、おいしかったです。
こちらは江田島へ行く船。
江田島も呉の歴史を語るのに外せない場所。行ってみたいものです。
まとめ
「大和」は極秘で製造され、本来世界一という性能を持ちながら、十分に能力を発揮できずに、沖縄特攻に駆り出されて存在を知られることなく沈没、という悲劇的な最期を迎えたからか、日本人にとっては兵器というよりは「神話」として受け入れられたそうです。
実際、沖縄戦では多くの陸軍兵士や市民が米軍に対して、絶望的な戦いをしていました。
「大和」(海軍)は沖縄に行っても無駄だとはわかっていながらも、
沖縄の人たちを見殺しにはできないということから沖縄へ特攻に行き、乗組員3000人以上の方とともに沖縄のため殉死したともいえます。
まあ、今まで大和を使えば勝てるはずのチャンスをみすみす逃したこともあったそうなので、海軍自身がその性能を殺したともいえるでしょうが…
呉は海軍の街として有名ですが、今の日本が誇れる素晴らしい技術があります。
戦争をした先人たちがきっと将来の日本のために、一生懸命という文字通り死ぬ気で戦ってきたからの成果だと思います。
日本のやってしまったことを知らずに戦争について語ることはできないでしょう。
だからこそ私たちは、戦争を忘れないために学び、戦争を二度と繰り返さないようにしていくことが必要ではないでしょうか。
またいつか再訪してみようと思います。
皆さんもぜひ訪れてみていただきたいところでした。
↓公式リンク
展示室開館時間:9:00~18:00(入館は17:30まで)
休館日:火曜日
入館料:大人500円 高校生300円 小中学生200円
次回は原爆が投下された地、広島の記事を紹介します。是非ご覧ください。
というか投稿かなり遅れててすみません。平成中には終わらせます。
~参考文献など~