【冬の五能線】リゾートしらかみ2号乗車記 弘前→秋田
2月の3連休、リゾートしらかみ2号に乗車してきました。
リゾートしらかみは1997年に運行を開始したリゾート列車で、青森(または弘前)と秋田間を五能線を経由して走破する列車。
五能線は青森・秋田県の日本海沿岸部を通り、風光明媚なローカル線として非常に有名な路線です。
そんな美しい車窓を楽しんでもらうために運転をはじめた、”乗ることを目的とした列車”。
そんなJRの狙いは大成功。
近年のローカル線ブームも後押しするかのように、今や鉄道ファンのみならず一般の方にも人気の、非常に有名な列車となりました。
一度乗ってみたかった列車に乗る機会ができたので
2月の3連休に乗車してみました。
2019/2/10 弘前848→川部855-902→千畳敷1016-31→深浦1055-1102→東能代1221-29→秋田1327
弘前駅から乗車。
3連休中日ということで満席でしたが、直前になって奇跡的に席が取れました。
来たのは青池編成でした。
弘前を出てからは次の川部まで進行方向が変わります。
実はこの列車は青森~秋田間で弘前、川部、東能代と3回も方向転換を行います。
これは川部の少し先にある大きな街の弘前駅を経由するためで、
なかなかサービスがいいですね。
こうして川部を定刻で出発。
ここは板柳だったか…
川部より北は吹雪で、相当雪が積もっていました。
2号では、川部から陸奥鶴田の間で津軽弁の語りべの方が昔話をしてくれます。
車内のモニターやスピーカーで流れているため、生で聞きたいというわけでなければ、わざわざ車内を移動する必要もないのはうれしいですね。
まもなく○○です。という車掌のアナウンスの時は話し途切れるけど(
1・2・3号では津軽三味線の演奏と民謡を唄います。
三味線の早いバチさばきには驚きました。
それにしても、五所川原付近は猛吹雪で車窓がとんでもないことになっています。
このように日本海側の天気は変わりやすく、大雪に加え強風もよく吹くので
冬の五能線は遅延、運休が多いのです。
今回の旅も大幅遅延を覚悟しましたが…
鯵ヶ沢に近づくにつれて若干天候が回復したようです。
心なしか今までより雪が少ないような気も。
ほぼ定刻で鰺ヶ沢を発車しました。
途中駅で普通列車と交換。
雪の中を走るキハ40・48は最高。
鉄オタ的にはキハ40のほうが乗りたいですね()
鯵ヶ沢からはずっと海沿いを走ってきていましたが、
千畳敷付近で相当海に近づきます。
千畳敷駅に到着。この駅からすぐのところに千畳敷海岸があります。
リゾートしらかみは(1・6号を除き)ここで15分間停車するので、散策することができます。
駅から岩も見えるし、横断歩道を通ったらすぐ海岸。駅のすぐそばに海岸があるというのもいいものです。
千畳敷は1792年の地震で、岩が海岸に隆起したことでできたといわれています。
これを珍しがった津軽藩の殿様が、千畳の敷を敷かせて大宴会をしたことが名前の由来だとか。
このあたりは地殻変動が激しく、幾度となく隆起を繰り返しているため、
海岸段丘は階段状になっています。
長い歴史で作られた、信じられないような美しい光景。
駅に戻ってきました。
発車5分前になるとしらかみが汽笛を鳴らして合図を出してくれるので、乗り遅れる心配はないでしょう。自動車が止まってくれるか次第?
駅には見事な氷の滝が。
どうやらこのあたりから染み出た地下水が冷えて凍ったらしいです。
(公式サイトがなかったので、wikipediaで失礼します)
千畳敷と深浦の間は本当に海のすぐそばを走ります。
そして、深浦の1つ手前の広戸を通過すると…
素晴らしい絶景が広がっていました。ちなみにこの区間は速度を落として低速通過します。
海の浸食で削られたのか、点々と散らばったものすごい形の岩が…
日本海の波を見ればこうなるのも納得です。
それにしてもよくこんなところに鉄道を作ったなあ。
深浦は夕日が美しいとのことで、この辺りで夕陽を見たらきれいなんだろうなあと思ったり。
やっぱりまた行きたいですね。
深浦で乗務員交代と、リゾートしらかみ1号のすれ違いで停車。
リゾートしらかみ、実は全部で3編成ありまして、私が乗っていたのは青池編成。
それと緑色の橅編成、黄色っぽいくまげら編成。
乗り得列車が人里少ないローカル線で3編成も運行するというのはなかなか驚きですが、
それだけリゾートしらかみが有名だということの裏返しだと思います。
雪が積もった木材。
秋田との県境付近で日本海とはお別れ。ここでも減速します。
いつも穏やかな太平洋側ばかり見ていたので本当に楽しかったです。
本当に、遅延しなくてよかった…
秋田県に入ると海はあまり見えなくなり、代わりに開けた場所が目立つようになります。
とはいえ風は強いようで、風車が各所にありました。
東能代に到着。
ここで3度目の方向転換をし、いよいよ秋田へ。
ここで秋田らしく、なまはげが乗車してきて、指定席券の確認と共に乗車記念のハンコを押していました。
「泣ぐ子はいねがあ~」というようなことは一切言わず、
「長旅お疲れさまです。弘前雪めっちゃ積もってたでしょ?また乗りに来てくださいね」と優しい言葉でお気遣いをしていただきました。
冬のごほうびと書かれた使い捨てカイロも1つ頂き。ありがとうございます。
雪は積もっていましたが、弘前や五所川原付近に比べたらそこまで目立つ吹雪ではありませんでした。
こうして秋田に定刻で到着。
ホームではさっきのなまはげと写真撮影ができるようです。
およそ4時間半にも及ぶとても長い旅でしたが、特に五能線内の車窓が変化に富んでいて飽きることなくとても楽しい旅でした。
***
猛吹雪の中をゆっくりなダイヤとはいえ定刻通り走る列車。やっぱりすごいものです。
そしてこんなローカル線をリゾート列車が毎日2~3往復しているというのは驚きですが、それだけ五能線が注目を浴びているということでしょう。
冬の日本海は奇岩や海岸と荒波が非常によく映えもう最高。
ただ、岩木山は雪で全く見えなかったので、
また季節問わずに行ってみたいです。
最後に、JR東日本秋田支社の公式ホームページの紹介です↓
【駅の目の前・福山城】冬の18きっぷ西日本遠征Ⅳ 播磨新宮→福山→三原
岡山行きに乗車し岡山で乗り換えて福山へ。
日生だかそのあたりで一気に人が乗ってきて、伊部・邑久などで車内は東京のラッシュ時並みの混雑に。
さすが政令指定都市・岡山。需要は東京ほどではないとしてもかなり多いようです。
(2両編成はさすがに短すぎる感がするけど)
前回の記事はこちら↓
せっかく岡山に来ましたが今回はスルー。
岡山の後楽園や倉敷、吉備津神社など見たいものはたくさんありましたが、疲労のことを考え妥協しました。
事実、この後来た糸崎行きも大混雑で福山までずっと立ちっぱなしでした…
ここまで人が多いとは…正直舐めてました(-_-;)
どこかの駅から見えた工場。
瀬戸内工業地帯は石油重化学工業が有名だったっけ…とか思いながらこれだけ写真に撮りました。
工業地帯なんだというのは2日目に実感するのでここでは触れないでおきますね。
放心状態で立ち続けること1時間。福山に到着。
福山駅は結構大きな町で新幹線のぞみも一部停車します。
そして何より、駅の目の前(もはやホームからすぐ見える)に城跡があります。
天守閣が駅からこんな近いとは衝撃的です。
こんな感じ。駅の出口を出てからほんの1、2分で城郭までたどり着きます。
自分は全国の城跡は1割も行っていないとはいえ、
町の中心駅からここまで近い所にあり、天守閣まであるお城なんてほとんどないと思います。
福山城は、1619年(元和5年)に譜代大名・水野勝成が徳川幕府によって備後10万石の領主に封じられた後、1622年(同8年)に完成した城です。
「江戸時代建築最後の最も完成された名城」としてたたえられたそうです。
歴代の藩主は、水野家5代、松平家1代、阿部家10代と続き、廃藩置県に至るまで福山城が藩治の中心でした。
しかし1873年(明治6年)に廃城となって多くの城の建物が取り壊され、更に1945年(昭和20年)8月の空襲により国宝に指定されていた天守閣と御湯殿も焼失してしまいました。
しかし、この伏見櫓は戦災をくぐり抜けました。
このやぐら、3階3層なのですが水野勝成が福山城を移築するにあたって、徳川2代将軍・秀忠が京都の伏見城の二の丸から移設してきたそうです。
姫路城ほどではないとはいえ、白壁3層構造の豪華な姿から安土桃山時代の気風をただよわせます。
ちなみに、本丸の正面の筋鉄御門も伏見城から移築され、この門も千歳の被害から逃れたそうです。
さらに、月見櫓や油殿という城の建物を、講演会やお花見などで貸し出しているそうです。
駅に近いだけでなく、地域に根付いた城という雰囲気でした。
少し途中下車して軽く見る程度でも楽しそうなのでお勧めです。
www.city.fukuyama.hiroshima.jp
***
駅の目の前にある城というのもなかなか珍しかったです。
駅のホームから見るだけでなく、乗換や待ち合わせの待機時間や、ずっと乗りっぱなしの18きっぷ旅での途中下車などで気分転換として重宝しそうですね。
そして福山の駅先もなかなかいい雰囲気でした。
城の景色がよく見れないのが残念?
このあと115系に乗り換えつつ三原に到着。
三原駅といえば三原城跡が目の前どころか駅の敷地内にありますが、翌日に備えスルー、早めに睡眠をとりましたとさ。
さて次回は2日目、海軍のまちの呉、原爆投下された広島の観光の記録です。重い内容になってしまうかもしれませんが、どうぞお楽しみに。
閲覧ありがとうございました。
【磯の香り漂う赤穂市へ】冬の18きっぷ西日本遠征Ⅲ 播磨新宮→播州赤穂
新宮宮内遺跡を見た後は、姫路にUターンして播州赤穂へ。
山陽本線経由でそのまま岡山に向かってもいいのですが、接続が悪かったので赤穂線に乗車してみることにしました。
前回の記事はこちら↓
赤穂城は駅からやや近い所にあります。
赤穂の城下町は、江戸時代のころにようやく海が陸地になったという場所のため、生活用水を得るために井戸を掘っても出てくるのは海水ばかり。そのため上水がないと真水を得ることはできませんでした。
そこで目を付けたのが町のすぐそばに流れる千種川。赤穂城から見て東に流れています。
千種川を約7km遡ったところで川から水路を引き、開渠という蓋がない溝によって城下町まで導水しました。この水路は、農業用水と明確に区別され、牛や馬を通らせて汚すことのないようにというお触れまで出されました。
。
そして、城下町の北端のところまで来ると、「百々呂屋裏大枡(ももろやうらおおます・もんもんじゃうらおおます)」という2間(4m)四方の石組枡を通し、ちょっとした「ろ過」がされた後、城下町へ暗渠という、今度は蓋のある溝に流されました。
そしてこの上水道は、侍屋敷から町家にいたるまで、1戸ずつに給水されました(各戸給水)。井戸が使えないとはいえ一軒一軒に給水するとは驚きです。
そんな赤穂の上水道は、江戸の神田上水、広島の福山上水とともに「日本三大上水」とよばれ、しかも赤穂のは今でも残されています。
赤穂城に向かう場合お城通り(バスもこっちを通ります)を通るのが最も近いですが、
お成り道というかつて殿様が通った道もあります。
その沿道にはたくさんの寺があり、ここは花岳寺。
浅野家の菩提寺(先祖代々のお墓がある寺)で、当時の義士のお墓もあるそうです。
宝物館などもあるそうですが、境内しか見れませんでした…
赤穂城に到着。
駅から歩いて20分ほどで、海の近くなので磯の香りがします。
そんな赤穂城ですが、残念ながら二の丸庭園は時間がなくて入れず、赤穂市の民俗資料館や歴史博物館も水曜日で休みでした。
まさに行っただけ、という場所でした。
ということで正直お城の詳細や赤穂事件というのもよくわからず。
赤穂は水曜日以外にまたじっくりと行きたいですね。
また再訪すると思うので城の紹介は少なめにしときますね。
時間もなく、あまり楽しむことができなかったのは時間のかかる鈍行旅においては仕方ないところですが、
また行きたいと思うのも事実。
浅く広くといった感じにいろいろと訪れていきたいですね。
参考
あこうぶらりマップ(駅で配布されていたパンフレット)
【駅チカ弥生時代の史跡】冬の18きっぷ西日本遠征記 姫路→播磨新宮
姫路城を訪れた後は弥生時代の遺跡に行ってみました。
前回の記事はこちら↓
ikeeki.hatenablog.com
姫路駅から姫新線というローカル線に乗車。
姫路から津山、中国勝山を経由して新見まで。長さは158.1kmと長大なローカル線。
とはいえ、姫路市、たつの市、佐用町、美作市、津山市、真庭市、新見市といったそれなりに大きい地域も通るため、利用客はそれなりに多いそうです。
実際朝の播磨新宮行きはかなり混雑していましたし、沿線や駅のすぐそばに高校もあり学生の定期利用もあるだろうと見受けられました。
もちろん、ローカル線の経営はさらに厳しくなっているので油断は禁物です。
姫路から30分ほどで播磨新宮に到着。
新宮町の玄関口で、日中でも30分に1本は姫路から播磨新宮まで運転されています。
なかなか綺麗で立派な駅舎でした。
この辺りは「揖保乃糸」というそうめんが有名で工場があり、煙が黙々と出ていました。
1つ隣の東觜崎駅からほど近い所にそうめん資料館とか素麺神社、そうめんレストランなどがあり、行ってみたかったのですが、今回はパス。
播磨新宮の駅にほど近い遺跡に行ってみようと思います。
歩くことわずか5分。
「新宮宮内遺跡 弥生の森」とありました。
遺跡公園となっているので誰でも気軽に行くことができます。
新宮宮内遺跡とは、縄文時代から平安時代の大規模な集落遺跡です。
揖保川中流の沖積平野に位置していて、弥生時代中期に最盛期を迎えました。
約2000年前の人々の暮らしを伝える西播磨の貴重な遺跡として1982年(昭和57年)に国の史跡に指定されました。
一番の目玉は高さ6m直径10mの復元された竪穴住居でしょう。
地域のボランティアの方が地域史を子供たちに伝えるという願いを込めて作ったそうです。
屋根にひかれた茅(かや)の確保などに手間取ったそうですが、こういうのをなかなか見ない人にとっては大変素晴らしいものでした。
揖保乃糸の工場に引けを取らない存在感でした。
何この四角い囲い、と思われる方もいるでしょうが、
弥生時代は小さなクニがたくさんできて、食糧巡りなどで戦争が起こりました。
ここは、この集団の最前線で戦った戦士の土壙墓(どこうぼ・墓穴を掘り直接遺体を埋めた墓のこと。この近くにもたくさんの共同墓地?の土壙墓群がある)とされています。
石鏃といわれるサヌカイト製の石の矢じりを19本も刺されるという壮絶な最期を遂げましたが、仲間によって丁重に埋葬されたと推測されているそうです。
戦死者の墓のほかにも石剣や石鏃が大量に出土し、多くの戦争があったことがうかがえます。
このような犠牲のもとで集落やクニは続いてきたのですね…
ということで手前にいわゆる濠があり、
土壙墓のはずれ(写真では真ん中あたり)に凹っとした丸いものは円形周溝墓というお墓がありました。
姫路城とは似つかないですが、ある意味似た雰囲気があるようなないような…
そう考えると日本のお城というのは、かなり完成された、国を守るための軍事施設だったんですね。
案内板までご丁寧にありました。
この遺跡の特徴はこの「分銅形土製品」ではないでしょうか。
用途不明で祭祀に使われると思われる土器が県では最も多く出土されました。
この土器、岡山県でも多く出土していることから、吉備国と播磨国が強いつながりにあったと推測されるそうです。
それと、近くに「たつの市立埋蔵文化財センター」という出土された土器が無料で見学できる博物館があります。
写真は撮影していませんので、ぜひこちらも行ってみてください。
***
1時間程度しかいませんでしたが、なかなか楽しめました。列車の乗換時間にふらっと楽しむ程度でもよさそうですね。
姫新線沿線には竜野城や東觜崎の素麺資料館など色々楽しめそうなので、また行ってみたいです。
おまけで、播磨新宮~東觜崎間の車窓で見えた觜崎の屏風岩。
安山岩の岩脈が山頂に向かって伸びて、屏風を立てているように見えることから名づけられました。
はげ山かと思っていましたが、岩だったとは驚きでした。
次回は赤穂城を紹介します。
参考
・新宮宮内遺跡 パンフレット
・https://style.nikkei.com/article/DGXNASHC07021_Z00C12A5000000?channel=DF280120166609
【美しさと強さを兼ねる姫路城へ】冬の18きっぷ西日本遠征記 東京→姫路
2018年の年末の冬休み、広島へ青春18きっぷで旅に出ていました。
乗り鉄はもちろんですが、お城巡りや世界遺産散策、比較的マイナーな史跡の観光や戦争遺構や博物館の見学など、様々なことを楽しみ、学び、経験した4日間でした。
初日はサンライズ号で姫路へ行き、姫路から18きっぷを使用して姫新線の播磨新宮・赤穂線を経由し播州赤穂・福山を経由して三原まで行きました。
今回は姫路城の観光の記録をご紹介します。かなり長いシリーズとなるのでぜひお楽しみください。
【第0.5~1日】
2018/12/25 東京2221 (車中泊)
12/26 姫路720-908 播磨新宮939-1032 姫路1102-1135 播州赤穂1207-1337 岡山1501-09 福山1610-(暫定ダイヤのため以下省略)三原
2018年の大学が無事終わり、つかの間の冬休みに。そこでクリスマスに一人で旅をすることに(笑)
年末だからいろいろ頑張ってきた一年のご褒美として旅を盛り上げようと贅沢にも(臨時の)寝台特急サンライズエクスプレスに乗車。しかもなぜか姫路まで(笑)
興奮して撮影しまくりましたが、面倒なので写真は少なめにしときます。
で、乗った感想はというと…全く寝れなかったです。
普段と違う環境だとか、興奮していたというのもありますが、1階席ではシングルでも振動が気になりました。ビジネスホテルのシングルの宿泊に慣れていると、どうも熟睡はできず。ムーンライトほどではなかったですがかなりきつかったです…
ノビノビだったらともかく、これなら自分は夜に新幹線で出発し、前泊していったほうがいいかなと思いました。
といっても駅に泊まったら「ここどこ?」って気になっていちいちカーテンを開けて確認しちゃったから当然なんですが←
ほぼ定刻で姫路に到着。結局2時間くらいしか寝てなかったような…
ぼーっとした状態で姫路駅で降ります。
駅のお城口にある展望台から撮影。関西圏の7時半で通勤ラッシュのころでしたが、東京の混雑に慣れてるとどうってことなかったです。やっぱり東京の人の多さには閉口する…
ちなみにJRの新快速は、日中は神戸までの55㎞を40分、大阪までの90㎞を1時間でかっ飛ばすという恐ろしいスピードです。さすがJR西日本。
ちなみに姫路~大阪の87.9㎞という距離は、東京駅から大月、小田原、上総一ノ宮、小金井、本庄、石岡までの距離にほぼ匹敵します。特急列車でも1時間超える区間もざらにあるので、なんだか距離感が狂ってしまいそうですね。
実際、帰りに新快速に乗るのですがその速さに恐怖すら覚えたくらいです。文明ってすごいですね。単にチキンなだけじゃん
駅前北口の大通りは御覧の通りまっすぐで広い歩道も整備されていて、お城まで迷わずに行くことができます。
といっても、駅からお城の入口までだけで大体直線で1.5㎞ほどあるので意外と近いようで20分くらい歩きます。
それだけ姫路城が大きく、目立つということでもあります。
平日の早朝ということでそれらしき観光客はいませんでした。
軽く散策する程度のつもりでしたが、あまりの大きさと美しさに圧倒。
さすが世界遺産だけあって、大変美しいものでした。
***
では、軽く姫路城のことについて記してみようと思います。
かつてはここは「姫山」とよばれ(播磨国風土記に記載されている)、1333年(鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政が行われた年ですね)に赤松氏が砦を建てたといわれます。
赤松氏といえば、赤松満祐が室町幕府の将軍・足利義則を殺害した嘉吉の変が有名ですが、どうやら播磨・備前・美作の守護だったそうです。
その後、嘉吉の変や応仁の乱を経て、秀吉の中国攻略のため城を秀吉に献上。秀吉の居城となりました。
秀吉は3層にもなる天守閣を築き、関ケ原の戦いの後に池田輝政が姫路城主になり、大改築。1609年(慶長14年)に今の大天守が建築されました。
西国統治の重要拠点として戦乱の落ち着いた江戸時代以降は本多氏、松平氏、榊原氏らが城主となり、戦乱にあうことはなく今まで400年以上ずっと残ってきたそうです。
ちなみに世界遺産に登録された理由というのがホームページにあったので引用しました。
・その美的完成度が我が国の木造建築の最高の位置にあり、世界的にも他に類のない優れたものであること。
・17世紀初頭の城郭建築の最盛期に、天守群を中心に、櫓、門、土塀等の建造物や石垣、堀などの土木建築物が良好に保存され、防御に工夫した日本独自の城郭の構造を最もよく示した城であること。http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle/about/sekaiisan.html
たしかに、自分の中で「お城」というと無骨なイメージでしたが、姫路城は優雅で美しいというのが印象的でした。実際その美しさから「白鷺(シラサギ)城」とも呼ばれているそうです。
そして、姫路城の特徴は美しさだけでなく、大きさ。
見ていただけるとわかる通り堀と石垣が大きくグルっと囲まれています。なんと3重に濠を巡らし、らせん状の縄張りにしています。
さらに、白漆喰総塗籠造りで、5層7階建ての大天守のほかに3つも小さな天守が渡櫓としてつながっています。(大天守が小天守とつながっている様式を連立式天守という)
本丸・二の丸・三の丸を囲む内濠、中局輪(ぐるわ)といわれる武家町を囲む中濠、外局輪といわれる町人町を囲む外堀…
内局輪までの面積は23万平方メートル、外局輪を含めると面積はなんと233万平方メートル。グーグルマップなどの俯瞰写真を見るとあまりの大きさに感嘆します。
鉄砲狭間や石落しや、急なこう配なども当然あり、美しいながら敵が侵入しにくい作りにするこだわりっぷり。しかも、姫山の原生林にも囲まれています。
桃山文化の象徴として美しさばかりクローズアップされますが、立派な軍事施設としても機能していたのです。
ちなみに、こういう平野(ここでは播磨平野)の中の丘陵や尾根に作られた城のことを平山城といい、犬山城・伏見城・安土城などがこのタイプに含まれます。
***
こういう経緯を知ると、やはりまた訪れたくなってしまいました(笑)
入場していないので、ぜひまた行ってみたいと思いました。
日本史の資料集の桃山文化の特徴というページに「城郭建築では全国統一を示す雄大で豪壮な文化が特色である」という風に書かれていましたが納得しました。
お城=戦いという自分の勝手なイメージが変わりましたね。本当に。
正直私はこれを知ったうえでも松本城や熊本城のほうが好きなのですが、日本の名城として紹介するには姫路城が一番ふさわしいと思います。
市街地に近い中にここまで日本を代表する素晴らしいお城がある、というのはやはり世界に誇るべきだとより強く思いました。
閲覧ありがとうございました。
次回は播磨新宮と赤穂に行った記事を紹介します。
参考
・新詳日本史(浜島書店)
・http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle/about/history.html